2009年 01月 31日
この世は美しい!〜冩眞家・西澤 豊氏の心眼 |
ある同じ年の建築家の造る建物は、他の多くの作品と違う印象を受けます。そこには常に『本質の存在』を感じるのです。傍目には特に奇をてらう素振りを抑えつつ、時に大らかに見えながら、造る事を生業にする者から観ると、いつも心の奥底を鋭利な刃物でえぐられているような所があって、時折彼のHPに立ち寄ったりします。
先日、そこに彼がリスペクトするある写真家の名前があってたので調べてみると、今月いっぱいまで豊橋で個展をしている事がわかり、思い立って伺ってきました。
西澤 豊 冩眞展
「多米・岩崎 自然歩道」
会期:2009/1/3(土) 〜 1/31(土)
会場:カフェ・バロック
豊橋市大手町35
豊橋駅から市電に乗り換えて3つ目の「札木」で降りて、東に少し進むと平屋の小さな喫茶店の真っ黒な壁に、西澤氏の冩眞は在りました。
■光
そこにある冩眞はどれも普段我々が知る写真ではありません。それは「音のない世界で、質量だけがある存在」が、我々と同じ次元に忽然と出現したような不思議な感じ…。
その冩眞は『光』そのもの。ただ、その『光』を燦々と浴びるのではなく、どこか遠巻きに、あくまで傍観者のような捉え方。それは畏敬か畏怖か…。
そもそも、モノの存在は光によって示される。いや、現代科学では光も物質もエネルギーさえも『波』であるともされ、同一視できたりする。氏の映し出す冩眞には、そんな世界観を感じずにいられない。
■不確かなもの
また、これらの冩眞には明確な形は希薄で、全ては「光の濃淡」で現され、ものによっては、冩眞と言う事すら逸脱しかねない。
サイキックな友人は「どこか不自由な人に力は現れやすい」と言ったが、不自由なもの、曖昧なもの、弱いもの、脆いもの、危ういもの、不足したもの、不確かなもの・・・に、どうやら神はその本質を与えるように感じる。
氏が現す世界にはそんな入り口が在るのかもしれない。
■この世は美しい!
会場には、ちょうど作者の西澤氏もいらっしゃったのですが、先客と熱心にお話をされて、少し離れて座った私には時折短いセンテンスが聞こえる程度。そんな言葉を、帰りの電車の中で繰り返し思い浮かべながら、次第にこんな言葉が浮かんできました。
『在りのままに捉えている』
ただ、それだけでは説明がつかない・・・。そして、その答えは先の建築家のHPの中にありました。
『彼(西澤氏)は云います。
「この世は美しい!」 と』
■出会い
建築写真を信用しないという建築家の彼が、この冩眞家・西澤氏をリスペクトする訳の一端を垣間見た気がしました。
それで思い出したのが、千利休と武野紹鴎(たけのじょうおう)の関係。編集工学の松岡正剛氏によれば、19歳の時、師から紹鴎を紹介された利休は、彼の『好み』にぞっこんまいった。紹鴎の侘びは慎み深くおごらぬが、にも関わらず時代の先端を思わせる清新に富んでいた。という。(「日本数寄」より)
出会いは必要とされる者に与えられたと言う事か、つくづく羨ましい。まあ、それが必然と言うものかもしれない。
もちろん私のとっても素晴らしい体験でした。次回作も、いや旧作も是非拝見したく、もっと西澤氏の『好み』に触れたいものです。
先日、そこに彼がリスペクトするある写真家の名前があってたので調べてみると、今月いっぱいまで豊橋で個展をしている事がわかり、思い立って伺ってきました。
西澤 豊 冩眞展
「多米・岩崎 自然歩道」
会期:2009/1/3(土) 〜 1/31(土)
会場:カフェ・バロック
豊橋市大手町35
豊橋駅から市電に乗り換えて3つ目の「札木」で降りて、東に少し進むと平屋の小さな喫茶店の真っ黒な壁に、西澤氏の冩眞は在りました。
■光
そこにある冩眞はどれも普段我々が知る写真ではありません。それは「音のない世界で、質量だけがある存在」が、我々と同じ次元に忽然と出現したような不思議な感じ…。
その冩眞は『光』そのもの。ただ、その『光』を燦々と浴びるのではなく、どこか遠巻きに、あくまで傍観者のような捉え方。それは畏敬か畏怖か…。
そもそも、モノの存在は光によって示される。いや、現代科学では光も物質もエネルギーさえも『波』であるともされ、同一視できたりする。氏の映し出す冩眞には、そんな世界観を感じずにいられない。
■不確かなもの
また、これらの冩眞には明確な形は希薄で、全ては「光の濃淡」で現され、ものによっては、冩眞と言う事すら逸脱しかねない。
サイキックな友人は「どこか不自由な人に力は現れやすい」と言ったが、不自由なもの、曖昧なもの、弱いもの、脆いもの、危ういもの、不足したもの、不確かなもの・・・に、どうやら神はその本質を与えるように感じる。
氏が現す世界にはそんな入り口が在るのかもしれない。
■この世は美しい!
会場には、ちょうど作者の西澤氏もいらっしゃったのですが、先客と熱心にお話をされて、少し離れて座った私には時折短いセンテンスが聞こえる程度。そんな言葉を、帰りの電車の中で繰り返し思い浮かべながら、次第にこんな言葉が浮かんできました。
『在りのままに捉えている』
ただ、それだけでは説明がつかない・・・。そして、その答えは先の建築家のHPの中にありました。
『彼(西澤氏)は云います。
「この世は美しい!」 と』
■出会い
建築写真を信用しないという建築家の彼が、この冩眞家・西澤氏をリスペクトする訳の一端を垣間見た気がしました。
それで思い出したのが、千利休と武野紹鴎(たけのじょうおう)の関係。編集工学の松岡正剛氏によれば、19歳の時、師から紹鴎を紹介された利休は、彼の『好み』にぞっこんまいった。紹鴎の侘びは慎み深くおごらぬが、にも関わらず時代の先端を思わせる清新に富んでいた。という。(「日本数寄」より)
出会いは必要とされる者に与えられたと言う事か、つくづく羨ましい。まあ、それが必然と言うものかもしれない。
もちろん私のとっても素晴らしい体験でした。次回作も、いや旧作も是非拝見したく、もっと西澤氏の『好み』に触れたいものです。
by DEPTH-TRUCT
| 2009-01-31 05:20
| 建築雑記