2009年 06月 11日
何か根本が違う気がする |
雨模様の中、久しぶりに伺ったお客様の所で息子さんの話になりました。彼はアスペルガー症候群というチャレンジドで、当時、彼の将来を見据えた住まい造りを私がお手伝いさせていただきました。
彼の部屋はとても変わっていて、小さなスペースが幾つもあって今も彼の友達が(友達じゃなくても)よく集まるそうで、当初の目的のひとつが叶ってて、設計者として嬉しい限りです。
■無理解
アスペルガー症候群はいわゆる発達障害の一種として、特に「かかわり」「コミュニケーション」「こだわり」に関し特異性が観られるそうです。詳しくは以下を参照してください。
●アスペルガー症候群を知っていますか?
http://www.autism.jp/asp_index.html
完成後小学校に入学した彼も、今では6年生。月日の流れを感じますが、入学前から学校側に理解を求める活動など、これまで決して平坦な道のりではなかったそうです。
じつは、平成16年には文部科学省によってガイドラインの試案が公表されています。
「小・中学校におけるLD(学習障害),ADHD(注意欠陥/多動性障害),高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のためのガイドライン(試案)」
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/01/04013002.htm
しかし、実際にはまだまだ理解に乏しいのが現実のようで、特に無理解な、あるいは関心の薄い校長や担任に変わる時期に、子供への対応が遅れたり、間違ってしまう事が多々見受けられるそうです。
もちろん、親などが積極的に学校側などに働きかけ、専門家などを呼んでの講演や勉強会などを企画しても先生方の参加が今ひとつ‥だったりするそうです。
問題は、無関心という健常者と言われる人達の障害です。
■教育のフラット化
実際には「かかわり」「コミュニケーション」「こだわり」といった部分は、人それぞれに様々で、現実社会を見廻しても『個性』と言う形でよく見られたりするそうです。
例えば漢字の憶え方も、多くの子供達は書いて憶えるのに対し、彼は書く事が苦手なので見て憶える方法をとります。それを理解しているお母さんは息子のために漢字の単語帳を作って手助けをしますが、それを見て他の子供達は「ズルイ」と言い、先生も「かまい過ぎ」と言うのだそうです。
「違う」事を排除しようとする心、「手助け」を許容しようとしない心・・・
教育とは何なのでしょうか?
以前にも書きましたが、「違う」事は防御の形であり、しなやかで豊潤な社会を形成する基礎であるはずです。私は人の顔が明らかに他の動植物に比べ同種内で違うのは、それ程の違いが無ければこの人間社会(種)を守れないからだと思っています。
養護学校ではない、いわゆる普通学校では『特別学級』などを用意して、彼等を隔離するようなシステムを作っていますが、そろそろ、それが健全なのか考え直す時期に来ているように思います。最近の事件などを見てもフラット化する社会(学校)が、より多くの問題を孕み、子供達に悪影響を与えている事を私達は十分に認識できたと思います。
いま彼は、廻りと「違う」事に気付き始めています。問題はそれによって彼のやる気を削ぎ、生きる活力を奪い始めている事です。もちろん、彼の廻りの子供達も彼から学ぶ機会を逃しつつあり、教育の最も重要な部分がスコンと抜け落ちていると思えてなりません。
その意味からも犬山市の教育委員会が「全国一斉テスト」を当初受けなかったのは、それなりに納得できるものでした。
じつは私も今と大して変わらない体制の教育を受けましたが、やはり、何か根本が違う気がするのは私だけでしょうか。
彼の部屋はとても変わっていて、小さなスペースが幾つもあって今も彼の友達が(友達じゃなくても)よく集まるそうで、当初の目的のひとつが叶ってて、設計者として嬉しい限りです。
■無理解
アスペルガー症候群はいわゆる発達障害の一種として、特に「かかわり」「コミュニケーション」「こだわり」に関し特異性が観られるそうです。詳しくは以下を参照してください。
●アスペルガー症候群を知っていますか?
http://www.autism.jp/asp_index.html
完成後小学校に入学した彼も、今では6年生。月日の流れを感じますが、入学前から学校側に理解を求める活動など、これまで決して平坦な道のりではなかったそうです。
じつは、平成16年には文部科学省によってガイドラインの試案が公表されています。
「小・中学校におけるLD(学習障害),ADHD(注意欠陥/多動性障害),高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のためのガイドライン(試案)」
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/16/01/04013002.htm
しかし、実際にはまだまだ理解に乏しいのが現実のようで、特に無理解な、あるいは関心の薄い校長や担任に変わる時期に、子供への対応が遅れたり、間違ってしまう事が多々見受けられるそうです。
もちろん、親などが積極的に学校側などに働きかけ、専門家などを呼んでの講演や勉強会などを企画しても先生方の参加が今ひとつ‥だったりするそうです。
問題は、無関心という健常者と言われる人達の障害です。
■教育のフラット化
実際には「かかわり」「コミュニケーション」「こだわり」といった部分は、人それぞれに様々で、現実社会を見廻しても『個性』と言う形でよく見られたりするそうです。
例えば漢字の憶え方も、多くの子供達は書いて憶えるのに対し、彼は書く事が苦手なので見て憶える方法をとります。それを理解しているお母さんは息子のために漢字の単語帳を作って手助けをしますが、それを見て他の子供達は「ズルイ」と言い、先生も「かまい過ぎ」と言うのだそうです。
「違う」事を排除しようとする心、「手助け」を許容しようとしない心・・・
教育とは何なのでしょうか?
以前にも書きましたが、「違う」事は防御の形であり、しなやかで豊潤な社会を形成する基礎であるはずです。私は人の顔が明らかに他の動植物に比べ同種内で違うのは、それ程の違いが無ければこの人間社会(種)を守れないからだと思っています。
養護学校ではない、いわゆる普通学校では『特別学級』などを用意して、彼等を隔離するようなシステムを作っていますが、そろそろ、それが健全なのか考え直す時期に来ているように思います。最近の事件などを見てもフラット化する社会(学校)が、より多くの問題を孕み、子供達に悪影響を与えている事を私達は十分に認識できたと思います。
いま彼は、廻りと「違う」事に気付き始めています。問題はそれによって彼のやる気を削ぎ、生きる活力を奪い始めている事です。もちろん、彼の廻りの子供達も彼から学ぶ機会を逃しつつあり、教育の最も重要な部分がスコンと抜け落ちていると思えてなりません。
その意味からも犬山市の教育委員会が「全国一斉テスト」を当初受けなかったのは、それなりに納得できるものでした。
じつは私も今と大して変わらない体制の教育を受けましたが、やはり、何か根本が違う気がするのは私だけでしょうか。
by DEPTH-TRUCT
| 2009-06-11 23:58
| 雑 記