2009年 06月 24日
おやじギャグ〜駄洒落考 |
以前、とある場所で私の横に座ったのは60前くらいの紳士でした。ひょんなことで話し始めると、その方はかなりのダジャレ好きでらっしゃつた(大笑)。何でも、会社の会議中でも社長の前でもかますというかなりの強者。
じつは、私もダジャレは嗜む(たしなむ)程度ですが??・・・好きですね〜(笑)。ダジャレのような単純なもので楽しくなれるから幸せ者だと思います。特に会話の中で『連歌』の如くダジャレが続く様は、興が乗りますね〜!!(笑)
ただ、この手の遊びが『おやじギャグ』と称して、若者から敬遠される風潮は悲しい限りです。
■洒落と駄洒落
じつは「駄洒落」は「洒落」の一種で、日本の古くからある『言葉遊び』です。
***********
洒 落(しゃれ):その場に興を添えるために言う、
気のきいた文句。
ある文句をもじったり、同音や似た音の言葉に
掛けて言ったりすること。
駄洒落(だじゃれ): へたなしゃれ。くだらないしゃれ。
***********
現在でも「洒落」は落語などの世界に残っていますし、「笑点」やNHKの「携帯大喜利」などが 判り易いでしょう。
「NHK・携帯大喜利」
http://www.nhk.or.jp/o-giri/past/index.html
ダジャレの多くは同音異義語の組み合わせです。例えば・・・
「貴社の記者が汽車で帰社する」
「あの犬、ちゃうちゃうとちゃうんちゃう?」
まあ元々、日本語には同音異義語が多いという特徴があったので、こうして言葉遊びに発展したのでしょうが、聞く所に拠ると外国人はこの手のダジャレは感心するばかりで、なかなか『笑う』とはならないそうです。
■不景気こそダジャレを!
因に、ダジャレの起源は和歌の『掛詞(かけことば)』ではないかと言う説が有力だそうです。
掛詞(かけことば):一つの言葉に二つの意味を持たせる技法
まあ、まさに同音異義語による言葉遊びの系譜なのですが、注目すべきはここにも「二つを持って、ひとつの世界を見いだす『デュアルスタンダード』な世界が存在する」と言うことです。
この100年に一度と言う不況の閉塞感を打破するためには、今までにない考えや価値観が必要になりますが、それはそれぞれ違う世界を結ぶ創造性が重要な鍵になりやすく、その意味で映画や文学、音楽などの『文化』の力が大いに役立つのです。それらは縦横無尽に時間や空間など様々なものを乗り越えひとつの世界に融合できる、まさに創造の産物だからです。
ダジャレも同じように違う世界を結びます。柔らかな頭を創るのにちょうどいい『遊び』なのです。
■ダジャレの深み
ただ、先にも記したように外国人にダジャレを言っても解るのはデイブ・スペクターくらいで(笑)、『笑う』という感覚が彼等にはないようです。恐らくダジャレを「おやじギャグ」と冷ややかに見る今の若者も、この外国人と似た感覚なのかもしれません。
では、何故ダジャレで笑うのか、笑うようになったのか?
そう、もともとダジャレは「洒落」でした。話の潤滑油的な洒落にはそれなりの知識や教養も必要ですが、一般庶民にそのようなものはありません。彼等は知識人の使う「洒落」に憧れを持って聞いていた。やがて単に同音異義語を使って遊び始めたのかもしれません。
与 作:「若旦那はどこにいるか、わかだんなー」
田子作:「おめ、うめーこと言うなー。アーハハハ。」
当時、多くの抗えない貧しさの中にあった人々にとって、ダジャレは「憧憬」と「自虐」の産物であったのではないか。そして、その『笑い』で憂さを晴らし、生きる糧を貰った。そう思えてならないのです。
ですから、その『弱さを知らないと笑えない』のです。ただただ『笑う』ことの大切さ、有り難さに感覚的にでも気付いていなければ笑えない。ダジャレとはじつに奥深い、そう思っています。
若い皆様、これからは「おやじギャグ」も、大目に見てくださいね。
「えっ?!ダジャレ好きに面白い奴は居ね〜
って言うのは、どこのダレジャ〜〜。」(六級)orz…
じつは、私もダジャレは嗜む(たしなむ)程度ですが??・・・好きですね〜(笑)。ダジャレのような単純なもので楽しくなれるから幸せ者だと思います。特に会話の中で『連歌』の如くダジャレが続く様は、興が乗りますね〜!!(笑)
ただ、この手の遊びが『おやじギャグ』と称して、若者から敬遠される風潮は悲しい限りです。
■洒落と駄洒落
じつは「駄洒落」は「洒落」の一種で、日本の古くからある『言葉遊び』です。
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洒 落(しゃれ):その場に興を添えるために言う、
気のきいた文句。
ある文句をもじったり、同音や似た音の言葉に
掛けて言ったりすること。
駄洒落(だじゃれ): へたなしゃれ。くだらないしゃれ。
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現在でも「洒落」は落語などの世界に残っていますし、「笑点」やNHKの「携帯大喜利」などが 判り易いでしょう。
「NHK・携帯大喜利」
http://www.nhk.or.jp/o-giri/past/index.html
ダジャレの多くは同音異義語の組み合わせです。例えば・・・
「貴社の記者が汽車で帰社する」
「あの犬、ちゃうちゃうとちゃうんちゃう?」
まあ元々、日本語には同音異義語が多いという特徴があったので、こうして言葉遊びに発展したのでしょうが、聞く所に拠ると外国人はこの手のダジャレは感心するばかりで、なかなか『笑う』とはならないそうです。
■不景気こそダジャレを!
因に、ダジャレの起源は和歌の『掛詞(かけことば)』ではないかと言う説が有力だそうです。
掛詞(かけことば):一つの言葉に二つの意味を持たせる技法
まあ、まさに同音異義語による言葉遊びの系譜なのですが、注目すべきはここにも「二つを持って、ひとつの世界を見いだす『デュアルスタンダード』な世界が存在する」と言うことです。
この100年に一度と言う不況の閉塞感を打破するためには、今までにない考えや価値観が必要になりますが、それはそれぞれ違う世界を結ぶ創造性が重要な鍵になりやすく、その意味で映画や文学、音楽などの『文化』の力が大いに役立つのです。それらは縦横無尽に時間や空間など様々なものを乗り越えひとつの世界に融合できる、まさに創造の産物だからです。
ダジャレも同じように違う世界を結びます。柔らかな頭を創るのにちょうどいい『遊び』なのです。
■ダジャレの深み
ただ、先にも記したように外国人にダジャレを言っても解るのはデイブ・スペクターくらいで(笑)、『笑う』という感覚が彼等にはないようです。恐らくダジャレを「おやじギャグ」と冷ややかに見る今の若者も、この外国人と似た感覚なのかもしれません。
では、何故ダジャレで笑うのか、笑うようになったのか?
そう、もともとダジャレは「洒落」でした。話の潤滑油的な洒落にはそれなりの知識や教養も必要ですが、一般庶民にそのようなものはありません。彼等は知識人の使う「洒落」に憧れを持って聞いていた。やがて単に同音異義語を使って遊び始めたのかもしれません。
与 作:「若旦那はどこにいるか、わかだんなー」
田子作:「おめ、うめーこと言うなー。アーハハハ。」
当時、多くの抗えない貧しさの中にあった人々にとって、ダジャレは「憧憬」と「自虐」の産物であったのではないか。そして、その『笑い』で憂さを晴らし、生きる糧を貰った。そう思えてならないのです。
ですから、その『弱さを知らないと笑えない』のです。ただただ『笑う』ことの大切さ、有り難さに感覚的にでも気付いていなければ笑えない。ダジャレとはじつに奥深い、そう思っています。
若い皆様、これからは「おやじギャグ」も、大目に見てくださいね。
「えっ?!ダジャレ好きに面白い奴は居ね〜
って言うのは、どこのダレジャ〜〜。」(六級)orz…
by DEPTH-TRUCT
| 2009-06-24 12:55
| 雑 記