2005年 10月 04日
それを望むことから |
9/22付『itと呼ばれた子〜切り離して考える』に対して、kanbe48さんより戴いたコメントのお返事が長くなってしまったので、こちらに記載しますね。
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Commented by kanbe48
一向に減る気配なし、増える一方ですよ。救ってくれる者は現れるのでしょうか?
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kanbe48さん、いらっしゃい、初めまして。
早速ですが、救ってくれるのは子供のうちはそれを知った廻りの大人達。内在する恐怖や不安が培養され爆発する前にケアすることが必要でしょう。
また大人も同じですが、最後に救うのは自分しかないのではないでしょうか。その時に大切なのは感情をコントロールすることのように思います。それでも萎えてしまいそうな心を勇気づけることができるとすれば、同じ道を歩み、この経験を活かそうと思った人達なのでではないかと思うのです。
また、憎しみや虐待の連鎖を防ぐには考える時間が必要なように思っています。それは私だけだったのかも知れませんが、私にはそれが必要でした。人それぞれに方法はあるのでしょう。ただ自分が受けた思いを人には向けたくなかった・・・。人が集まって住む。家族や地域や社会を形成するのは、そうしないと生きていきにくいから。決して憎しみや虐待の連鎖を生む為ではないと思うのです。よしんば小さな衝突を生じたとしても、それは人が生きていく道のりを修正する、確認する課題だと今だから思うのです。
今の世は価値観が多様化して”正しい”ことが判りにくくなっています。そこで黙ってしまうと意志の疎通がなくなり、意志の疎通がなくなれば、結局、子供のように叩いてでも意志を通そうとすることが増えてくる。それが今の状態だと思います。まるで脅されてるように切迫感のみが肥大しているようにもみえます。
キャパシティーがない。あまりにも小さい。ネットで社会や世界は広がったと言うのに、社会のキャパシティーは逆にどんどん縮まっているように感じられます。私は社会に”安心感”がないから切迫感のみが肥大しているように思われてなりません。
ならば”安心感”とは何でしょう?それは”それぞれが必要と思われていること”なのではないでしょうか。自分の存在を認めてもらえること、他の存在を認めることが”安心感”を生む大切な行為だと思うのです。
ただ、それが自分の苦しみの原因だとすると、認めるのは難しいことです。そこで必要とされるのが”知性=良識”なのではないでしょうか。
人は人の間で暮らすことが必要であるならば、それこそが求められる姿。決して憎しみあったりする為に生を受けた訳ではなく、まして、生まれてくる時はみな裸で生まれてくるのです。そのことを理知的に考える必要がある。または想いを馳せる必要があると思うのです。
もし本当に必要ならば社会は求める方向へ自然と動くと思っています。それは環境を考えるようになった今の社会のように。
心地のいい風景を描く為にひとりづつ、キャパシティーを広げてみましょう。
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Commented by kanbe48
一向に減る気配なし、増える一方ですよ。救ってくれる者は現れるのでしょうか?
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kanbe48さん、いらっしゃい、初めまして。
早速ですが、救ってくれるのは子供のうちはそれを知った廻りの大人達。内在する恐怖や不安が培養され爆発する前にケアすることが必要でしょう。
また大人も同じですが、最後に救うのは自分しかないのではないでしょうか。その時に大切なのは感情をコントロールすることのように思います。それでも萎えてしまいそうな心を勇気づけることができるとすれば、同じ道を歩み、この経験を活かそうと思った人達なのでではないかと思うのです。
また、憎しみや虐待の連鎖を防ぐには考える時間が必要なように思っています。それは私だけだったのかも知れませんが、私にはそれが必要でした。人それぞれに方法はあるのでしょう。ただ自分が受けた思いを人には向けたくなかった・・・。人が集まって住む。家族や地域や社会を形成するのは、そうしないと生きていきにくいから。決して憎しみや虐待の連鎖を生む為ではないと思うのです。よしんば小さな衝突を生じたとしても、それは人が生きていく道のりを修正する、確認する課題だと今だから思うのです。
今の世は価値観が多様化して”正しい”ことが判りにくくなっています。そこで黙ってしまうと意志の疎通がなくなり、意志の疎通がなくなれば、結局、子供のように叩いてでも意志を通そうとすることが増えてくる。それが今の状態だと思います。まるで脅されてるように切迫感のみが肥大しているようにもみえます。
キャパシティーがない。あまりにも小さい。ネットで社会や世界は広がったと言うのに、社会のキャパシティーは逆にどんどん縮まっているように感じられます。私は社会に”安心感”がないから切迫感のみが肥大しているように思われてなりません。
ならば”安心感”とは何でしょう?それは”それぞれが必要と思われていること”なのではないでしょうか。自分の存在を認めてもらえること、他の存在を認めることが”安心感”を生む大切な行為だと思うのです。
ただ、それが自分の苦しみの原因だとすると、認めるのは難しいことです。そこで必要とされるのが”知性=良識”なのではないでしょうか。
人は人の間で暮らすことが必要であるならば、それこそが求められる姿。決して憎しみあったりする為に生を受けた訳ではなく、まして、生まれてくる時はみな裸で生まれてくるのです。そのことを理知的に考える必要がある。または想いを馳せる必要があると思うのです。
もし本当に必要ならば社会は求める方向へ自然と動くと思っています。それは環境を考えるようになった今の社会のように。
心地のいい風景を描く為にひとりづつ、キャパシティーを広げてみましょう。
by DEPTH-TRUCT
| 2005-10-04 20:01
| 雑 記