2009年 07月 11日
超並列展雑感 |
先日お話しした大阪の若手の建築事務所ドットアーキテクツ(3人組の事務所)の「超並列」展&シンポジウムに行ってきました。天窓の専門メーカー「ベルックス」さんの協力のもと、学生さんから私まで(最年長だったかも?)60人程の集まりでした。
彼等の仕事はいままでの建築と言う枠を軽々と超えて、アートやイベントなども「その世界を共有したい。」と設計や施工と『並列』に並べて積極的に絡んで行きます。それは我々の世代から見ると羨ましくもあり、微笑ましくもある世界でした。
■超並列
会場には模型が二つあって、一つは住宅の実施に近いだろうモデル、もう一つはそれを基にした架空の増殖模型・・・。ただ、これだけ見ても『超並列』は理解しがたいのは、それが終わりのないプロセスだからです。
『コンセプト(というもの)がしっくりこない。』
『差異を受け止めるようなものではないか。』
彼等はコンセプトやダイアグラムからの発想に疑問を感じるなかで、3人各々がそれぞれ模型、図面、ディテールなどを同時に並列的に思考する方法(プロセス)=『超並列』に行きついたといいます。
ただ、コンセプトやダイアグラムを持たないと言う事は、「最終型のコンセンサスがない」事を意味し、結果的に形で現す=最終型を示す事を目的とする建築行為から見ると、かなり難しい事をしているように観えます。
『例えば、十年後に<更新>する・・・』
そう、彼等にとって修繕行為も純粋に建築行為であって、プロセスの途中と考えているようです。
『超並列の純度はこだわらない。』
そう言うに至っては昔の建築家象である「作家性」などと言うものは、もちろん強烈にあるけれども、それよりも創る事を楽しみ、廻りに関わって行く事にウエイトがあるようです。それは片方で、至極健全なものづくりの姿勢でもあるとも言えます。
■キーワード
「受け入れる」「受け止める」「受け皿になる」
「ふるまい」
最初、3人の『超並列』な思考を成立させているモノがよく解らなかったのですが、話の端々に出てくる上のキーワードを聞きながら何となく納得できました。これらは全て関係性を示すと共に『一歩引いて全体を観る』姿勢を表わします。各々がその感覚を持つからこその『超並列』なのでしょう。
しかも常に進み続ける彼等の行為は留まる事を知らず流動的であるが故に、「受け流す」事も了解済みのはずです。そこにはかなり日本的な方法が見て取れます。つまり中国から漢字を受け入れ、受け止め、受け皿になって尚、倭国(わこく)のアイデンティティーを活かすため、仮名を創り変化し続けている姿に似て、彼等の『超並列』は、極めて編集的と言えると思います。
また、別の角度から見ると自由な最終型を持たない家づくりや街づくりは、じつは以前から世界の各地で極々普通に在って、それらを抽出する形でアレキサンダーはパターンランゲージを確立するのですが、永らく経済効率の陰に隠れて忘れられていました。
しかし、彼等(ドットアーキテクツ)が「アレキサンダーを意識していない」というように、事実そうであるならば尚更、ものづくりの本質に寄り添うそうした自然発生的な手法を彼等が彼等なりの方法で受け入れ、受け止め、受け皿になったのではないかと思って聞いていました。
■建築のフラット化と『超並列』
経済による世界のフラット化は異文化の中で如何に経済効率を上げるかを目指すものでした。そのためには、「わかりやすさ」を強調して地域性などの「文化」や「わかりにくさ」を排除してきましたが、建築も同じように経済効率の視点からの形態のフラット化は語るまでもないでしょう。
『超並列』は字面だけ見るとフラット化の一種のようですが、形態とプロセスの違いがはっきりしているので、彼等の話を聞いて納得できました。
『超並列』はあまりに理不尽すぎるフラット化に対する反作用ではないか・・・。そう考えるのも面白いかもしれません。
************
今回は、彼等(若い世代)の考える建築やアートや社会、地域性というものの境界が随分と広がっているんだなという印象を強く感じました。その軽みを持って様々なフィールドで活躍する姿が本当に羨ましくもあり、微笑ましくもあり、同時に刺激になったシンポジウムでした。行ってよかったです!
彼等の仕事はいままでの建築と言う枠を軽々と超えて、アートやイベントなども「その世界を共有したい。」と設計や施工と『並列』に並べて積極的に絡んで行きます。それは我々の世代から見ると羨ましくもあり、微笑ましくもある世界でした。
■超並列
会場には模型が二つあって、一つは住宅の実施に近いだろうモデル、もう一つはそれを基にした架空の増殖模型・・・。ただ、これだけ見ても『超並列』は理解しがたいのは、それが終わりのないプロセスだからです。
『コンセプト(というもの)がしっくりこない。』
『差異を受け止めるようなものではないか。』
彼等はコンセプトやダイアグラムからの発想に疑問を感じるなかで、3人各々がそれぞれ模型、図面、ディテールなどを同時に並列的に思考する方法(プロセス)=『超並列』に行きついたといいます。
ただ、コンセプトやダイアグラムを持たないと言う事は、「最終型のコンセンサスがない」事を意味し、結果的に形で現す=最終型を示す事を目的とする建築行為から見ると、かなり難しい事をしているように観えます。
『例えば、十年後に<更新>する・・・』
そう、彼等にとって修繕行為も純粋に建築行為であって、プロセスの途中と考えているようです。
『超並列の純度はこだわらない。』
そう言うに至っては昔の建築家象である「作家性」などと言うものは、もちろん強烈にあるけれども、それよりも創る事を楽しみ、廻りに関わって行く事にウエイトがあるようです。それは片方で、至極健全なものづくりの姿勢でもあるとも言えます。
■キーワード
「受け入れる」「受け止める」「受け皿になる」
「ふるまい」
最初、3人の『超並列』な思考を成立させているモノがよく解らなかったのですが、話の端々に出てくる上のキーワードを聞きながら何となく納得できました。これらは全て関係性を示すと共に『一歩引いて全体を観る』姿勢を表わします。各々がその感覚を持つからこその『超並列』なのでしょう。
しかも常に進み続ける彼等の行為は留まる事を知らず流動的であるが故に、「受け流す」事も了解済みのはずです。そこにはかなり日本的な方法が見て取れます。つまり中国から漢字を受け入れ、受け止め、受け皿になって尚、倭国(わこく)のアイデンティティーを活かすため、仮名を創り変化し続けている姿に似て、彼等の『超並列』は、極めて編集的と言えると思います。
また、別の角度から見ると自由な最終型を持たない家づくりや街づくりは、じつは以前から世界の各地で極々普通に在って、それらを抽出する形でアレキサンダーはパターンランゲージを確立するのですが、永らく経済効率の陰に隠れて忘れられていました。
しかし、彼等(ドットアーキテクツ)が「アレキサンダーを意識していない」というように、事実そうであるならば尚更、ものづくりの本質に寄り添うそうした自然発生的な手法を彼等が彼等なりの方法で受け入れ、受け止め、受け皿になったのではないかと思って聞いていました。
■建築のフラット化と『超並列』
経済による世界のフラット化は異文化の中で如何に経済効率を上げるかを目指すものでした。そのためには、「わかりやすさ」を強調して地域性などの「文化」や「わかりにくさ」を排除してきましたが、建築も同じように経済効率の視点からの形態のフラット化は語るまでもないでしょう。
『超並列』は字面だけ見るとフラット化の一種のようですが、形態とプロセスの違いがはっきりしているので、彼等の話を聞いて納得できました。
『超並列』はあまりに理不尽すぎるフラット化に対する反作用ではないか・・・。そう考えるのも面白いかもしれません。
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今回は、彼等(若い世代)の考える建築やアートや社会、地域性というものの境界が随分と広がっているんだなという印象を強く感じました。その軽みを持って様々なフィールドで活躍する姿が本当に羨ましくもあり、微笑ましくもあり、同時に刺激になったシンポジウムでした。行ってよかったです!
by DEPTH-TRUCT
| 2009-07-11 11:56
| 建築雑記