2010年 07月 04日
スキ・マ・多層・多様・多神 |
先日ある会議の分科会で議題の上った『スキ』について、その後自分なりに考察を試みていました。例えば、『スキ』を漢字変換するとじつに様々な漢字に変換できますが、例えばこんな感じです。
好き、数寄、隙、空き、 鋤、耡、耜、犂、犁、
透き、漉き、梳き、 主基・・・etc.
これら一見関係のない漢字のようですが、その意味の一端を観るとその奥底にはどうも似たような意味合いが隠れているように思います。
************
<好き>
「私は○○さんが好き。」と言った場合、それまで何でもなかった相手が途端に気になり始め、その間に流れる気配や視線、言葉の全てが際立ってきます。
つまり「好き」とは、自分以外の対象を持って一つの世界を創り、その関係、間で揺れ動くことと言えます。
<数寄>
「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花などの風情に対する執心です。また、数寄屋建築は、書院建築が重んじた格式・様式を極力排して虚飾を嫌い、内面を磨いて客をもてなすという茶人たちの強い精神性を反映し、シンプルで洗練された意匠を指向しました。・・・「不足の美」「余白の美」
捨てて、捨てて捨ててなお捨てきれぬもの、そのバランスの悪さ、欠けという隙間を、その余白と共に好いてゆくこと。
『数寄はもちろんスキである。「好き」でもあるが、隙間を透くことでもあった。一言でいえばスクリーニングのこと、透いて漉いて、鋤いて空いていくことである。そのうえで好いていく。』・・・松岡正剛「日本数寄」より
<隙>
隙は『間(あいだ)』です。人・物・事の全てに存在し、宇宙から分子原子に至るまである。故に、均一で平面的に観える物事を立体的、多層的にする装置である。
「隙間がある」という事は不完全さを伴いますが、その多層的な世界の隙間に自分をはめ込む余地を持つ。
<空き>
日本人は「ウツ」という空虚に、現(ウツツ)を見いだしてきた。何かが欠けていたり、足りない姿に美しさや本質を感じてきた。
「事足りぬ美」「不足の美」「余白の美」「小さきものの美」「引き算の美」
完全や満足では表せないもの、より際立たせるものを見ていた。枯山水で有名な京都の龍安寺の石庭は水を引くことで、かえって水を際立たせる。それは、「無いこと」から「有ること」を超えて、たちどころに「成ること」を意識していた。
また、「クウ」は空虚のごとく何もないと捉えるのではなく、そこにこそ『豊潤な世界』があると感じていた。例えば、現代量子理論では、「真空」は何も存在しない空間ではなく、活性化していない虚数の姿をとったエネルギーの貯蔵庫のようなものと捉え、我々の宇宙を生んだとされるビッグバンは、巨大な真空のエネルギーを溜め込んだ空間の一点が、その臨界点を超えた瞬間に、その真空のエネルギーが現実世界の物質やエネルギーに「相転移」したことで出現したといいます。・・・ウツからウツツへたちどころに成る様。
そして何より、日本の神社などでは社の中にはじつは何もなく、その「空」を感じさせるものへと意識を誘う。
「空き」とはつまり『豊潤、多層、多様な世界』を持つもの。
<鋤、耡、耜、犂、犁>
建築工事などで行なわれる地鎮祭には「穿ち初め(うがちぞめ)」として『鋤入れの義』があり、鋤を用いて盛り砂に鋤を入れる儀式があります。地鎮祭は、その土地の神様に工事の許しを請うと同時に、人智の及ばない土地の力を戴くために『穿つ』、孔をあける、隙間を作る行為なのではないか。 農具である「鋤、耡、耜、犂、犁」にはそんな霊力にも似た力を感じていたのかもしれない。事実、「耜」などは日本の神様の名前にも見られる漢字です。
私達は「 鋤、耡、耜、犂、犁」に替わるものを用いて隙間をつくり、自分だけの心地いい世界を見つけ出すことが出来るはずです。それは私達に新たな力をリフレッシュと言う形で与えてくれるかもしれません。
また、耕す行為は「田へ返す」循環を暗に意味しているようにもとれ、穿つ行為がその循環の中、つまり日常の中で必要な行為であるとも言えそうです。
<透き>
「戸に―がある」「割り込む―もない」
「仕事の―をみつける」「手―のとき」
「相手の―につけこむ」「―をねらう」「―を見せる」
上記のように物と物、事と事との間を指すと共に、片方を透かして向こうを観ることでもあります。それは一つの事象が幾つもの階層(レイヤ)世界に分けられる事、つまり『一即多、多即一』の絶対矛盾的自己同一の世界、今で言う『多様性を持つ世界』の存在を暗に示している。
「絶対矛盾的自己同一」
矛盾が矛盾のままで、またその対立が対立のままで、しかも全体として自己同一を保っているということである。
<漉き>
「紙を漉く」「海苔を漉く」など、水に溶かしたものを簀の子などですくい、形を整える行為は、水を引くことで成り立つ世界を示す。
また、それは重ねられたレイヤ(多層的世界)を分けること、引くことで浮かび上がらせることとも言える。
<梳き>
「櫛で髪を梳く」は、髪を櫛で整えることを言います。それは櫛の歯によって髪を多層に分け、間=隙間を作ること。
<主基>
天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)の祭事を大嘗祭(だいじょうさい)と言います。新米を宮中の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿の両神殿にお供えし、天皇はじめ皇族方が食す重要な儀式です。
この米を作る田を斎田といい、京都を中心に東を悠紀の地方、西を主基の地方としてそれぞれ斎田を選定します。
悠紀は「主」、主基は「副」の意味合いがあると云われ、主基は《2番目、次(つぎ)の意》を持ちますが、興味深いのはお供えする神殿が「一つ」ではなく「二つ」と言う点です。しかも、配置的には並列に並べられて建てられながら『次』とされている。
それは、「主」に隙間を与えるための「主基(すき)」ではないか、しかもその二つで一と成すところが面白い。
■スキ・マ・多層
このように「スキ」という言葉を見てくると、そこに浮かび上がるキ−ワードがあります。
・多層構造(時間、空間、心的)(一即多、多即一)を際立たせる。
・間(あいだ)、間(ま)、真(まこと)
「スキ」という言葉は人物事の「間(あいだ)」を際立たせる事で、様々な人物事がじつは多層・多様な構造を持つ事を示していることがわかります。
例えばそれは会社という狭い世界で壁にぶち当たっても、その壁はよく見ると、その隙間から外の社会へ繋がる多様な階層をを持っていおり、その隙間を上手く抜けてみると、あんなに分厚く立ちはだかっていた壁が嘘のように感じられるようなもの。
「日本文化は間の文化である。」と言われますが、多層を感じ「間(あいだ)」を日常的に行き来する事こそが大切であり尊ばれていたのではないか。
『神道と仏教』『天皇と将軍』『真名と仮名』『八百万の神々』『多仏の仏』など、『主と従』『主と副』『主と客』が西欧からは曖昧だと指摘されるのも、その「間(あいだ)」こそ意味があると考えたからで、そこにこそ「真(ま・まこと)」があると察していたからだろうと思わせます。
■多層・多様・多神
この多層・多様の認識は、今年名古屋で開かれるCOP10で話し合われる「生物多様性」に通じて、多様な生物や環境があってそれぞれが繋がる事で、地球に生命が溢れ生き生きと暮らせる世界である事を知ることです。
仏教の『一即多、多即一』、西田哲学の『絶対矛盾的自己同一』は全てこの『多層・多様』を意識しています。いま、西欧からの「複雑系」「生物多様性」という概念は行き着くところ、一神教的世界から多神教的世界への大きな変換期に来ているとも思われます。その意味でこの辺りに「真(ま・まこと)」があると言えるのです。
『スキ』という日本語の言霊には、大袈裟に言えば人類の「真(ま・まこと)」があると勝手に結論づけてしまいましょう。(笑)
好き、数寄、隙、空き、 鋤、耡、耜、犂、犁、
透き、漉き、梳き、 主基・・・etc.
これら一見関係のない漢字のようですが、その意味の一端を観るとその奥底にはどうも似たような意味合いが隠れているように思います。
************
<好き>
「私は○○さんが好き。」と言った場合、それまで何でもなかった相手が途端に気になり始め、その間に流れる気配や視線、言葉の全てが際立ってきます。
つまり「好き」とは、自分以外の対象を持って一つの世界を創り、その関係、間で揺れ動くことと言えます。
<数寄>
「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花などの風情に対する執心です。また、数寄屋建築は、書院建築が重んじた格式・様式を極力排して虚飾を嫌い、内面を磨いて客をもてなすという茶人たちの強い精神性を反映し、シンプルで洗練された意匠を指向しました。・・・「不足の美」「余白の美」
捨てて、捨てて捨ててなお捨てきれぬもの、そのバランスの悪さ、欠けという隙間を、その余白と共に好いてゆくこと。
『数寄はもちろんスキである。「好き」でもあるが、隙間を透くことでもあった。一言でいえばスクリーニングのこと、透いて漉いて、鋤いて空いていくことである。そのうえで好いていく。』・・・松岡正剛「日本数寄」より
<隙>
隙は『間(あいだ)』です。人・物・事の全てに存在し、宇宙から分子原子に至るまである。故に、均一で平面的に観える物事を立体的、多層的にする装置である。
「隙間がある」という事は不完全さを伴いますが、その多層的な世界の隙間に自分をはめ込む余地を持つ。
<空き>
日本人は「ウツ」という空虚に、現(ウツツ)を見いだしてきた。何かが欠けていたり、足りない姿に美しさや本質を感じてきた。
「事足りぬ美」「不足の美」「余白の美」「小さきものの美」「引き算の美」
完全や満足では表せないもの、より際立たせるものを見ていた。枯山水で有名な京都の龍安寺の石庭は水を引くことで、かえって水を際立たせる。それは、「無いこと」から「有ること」を超えて、たちどころに「成ること」を意識していた。
また、「クウ」は空虚のごとく何もないと捉えるのではなく、そこにこそ『豊潤な世界』があると感じていた。例えば、現代量子理論では、「真空」は何も存在しない空間ではなく、活性化していない虚数の姿をとったエネルギーの貯蔵庫のようなものと捉え、我々の宇宙を生んだとされるビッグバンは、巨大な真空のエネルギーを溜め込んだ空間の一点が、その臨界点を超えた瞬間に、その真空のエネルギーが現実世界の物質やエネルギーに「相転移」したことで出現したといいます。・・・ウツからウツツへたちどころに成る様。
そして何より、日本の神社などでは社の中にはじつは何もなく、その「空」を感じさせるものへと意識を誘う。
「空き」とはつまり『豊潤、多層、多様な世界』を持つもの。
<鋤、耡、耜、犂、犁>
建築工事などで行なわれる地鎮祭には「穿ち初め(うがちぞめ)」として『鋤入れの義』があり、鋤を用いて盛り砂に鋤を入れる儀式があります。地鎮祭は、その土地の神様に工事の許しを請うと同時に、人智の及ばない土地の力を戴くために『穿つ』、孔をあける、隙間を作る行為なのではないか。 農具である「鋤、耡、耜、犂、犁」にはそんな霊力にも似た力を感じていたのかもしれない。事実、「耜」などは日本の神様の名前にも見られる漢字です。
私達は「 鋤、耡、耜、犂、犁」に替わるものを用いて隙間をつくり、自分だけの心地いい世界を見つけ出すことが出来るはずです。それは私達に新たな力をリフレッシュと言う形で与えてくれるかもしれません。
また、耕す行為は「田へ返す」循環を暗に意味しているようにもとれ、穿つ行為がその循環の中、つまり日常の中で必要な行為であるとも言えそうです。
<透き>
「戸に―がある」「割り込む―もない」
「仕事の―をみつける」「手―のとき」
「相手の―につけこむ」「―をねらう」「―を見せる」
上記のように物と物、事と事との間を指すと共に、片方を透かして向こうを観ることでもあります。それは一つの事象が幾つもの階層(レイヤ)世界に分けられる事、つまり『一即多、多即一』の絶対矛盾的自己同一の世界、今で言う『多様性を持つ世界』の存在を暗に示している。
「絶対矛盾的自己同一」
矛盾が矛盾のままで、またその対立が対立のままで、しかも全体として自己同一を保っているということである。
<漉き>
「紙を漉く」「海苔を漉く」など、水に溶かしたものを簀の子などですくい、形を整える行為は、水を引くことで成り立つ世界を示す。
また、それは重ねられたレイヤ(多層的世界)を分けること、引くことで浮かび上がらせることとも言える。
<梳き>
「櫛で髪を梳く」は、髪を櫛で整えることを言います。それは櫛の歯によって髪を多層に分け、間=隙間を作ること。
<主基>
天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)の祭事を大嘗祭(だいじょうさい)と言います。新米を宮中の悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿の両神殿にお供えし、天皇はじめ皇族方が食す重要な儀式です。
この米を作る田を斎田といい、京都を中心に東を悠紀の地方、西を主基の地方としてそれぞれ斎田を選定します。
悠紀は「主」、主基は「副」の意味合いがあると云われ、主基は《2番目、次(つぎ)の意》を持ちますが、興味深いのはお供えする神殿が「一つ」ではなく「二つ」と言う点です。しかも、配置的には並列に並べられて建てられながら『次』とされている。
それは、「主」に隙間を与えるための「主基(すき)」ではないか、しかもその二つで一と成すところが面白い。
■スキ・マ・多層
このように「スキ」という言葉を見てくると、そこに浮かび上がるキ−ワードがあります。
・多層構造(時間、空間、心的)(一即多、多即一)を際立たせる。
・間(あいだ)、間(ま)、真(まこと)
「スキ」という言葉は人物事の「間(あいだ)」を際立たせる事で、様々な人物事がじつは多層・多様な構造を持つ事を示していることがわかります。
例えばそれは会社という狭い世界で壁にぶち当たっても、その壁はよく見ると、その隙間から外の社会へ繋がる多様な階層をを持っていおり、その隙間を上手く抜けてみると、あんなに分厚く立ちはだかっていた壁が嘘のように感じられるようなもの。
「日本文化は間の文化である。」と言われますが、多層を感じ「間(あいだ)」を日常的に行き来する事こそが大切であり尊ばれていたのではないか。
『神道と仏教』『天皇と将軍』『真名と仮名』『八百万の神々』『多仏の仏』など、『主と従』『主と副』『主と客』が西欧からは曖昧だと指摘されるのも、その「間(あいだ)」こそ意味があると考えたからで、そこにこそ「真(ま・まこと)」があると察していたからだろうと思わせます。
■多層・多様・多神
この多層・多様の認識は、今年名古屋で開かれるCOP10で話し合われる「生物多様性」に通じて、多様な生物や環境があってそれぞれが繋がる事で、地球に生命が溢れ生き生きと暮らせる世界である事を知ることです。
仏教の『一即多、多即一』、西田哲学の『絶対矛盾的自己同一』は全てこの『多層・多様』を意識しています。いま、西欧からの「複雑系」「生物多様性」という概念は行き着くところ、一神教的世界から多神教的世界への大きな変換期に来ているとも思われます。その意味でこの辺りに「真(ま・まこと)」があると言えるのです。
『スキ』という日本語の言霊には、大袈裟に言えば人類の「真(ま・まこと)」があると勝手に結論づけてしまいましょう。(笑)
by DEPTH-TRUCT
| 2010-07-04 15:17
| 雑 記