2005年 10月 30日
存在を感じる |
昔の建物の多くには”闇”が存在し、薄暗い闇の向こうにある柱や梁、壁や障子、ふすまといった質量の違う様々なグラデーションが、子供心に恐怖心を抱かせたものです。また、天井などの木目をふとんの中からジッと見つめると、何となく恐ろし気な顔に見えてしまったりして眠れないものでした。でも、その恐怖心こそが子供の強い想像力の現れに他なりませんでした。
いまや全ての部屋が明るくなり、想像する闇はなくなりました。何かわからない”存在感”を感じる事はないのです。唯一の”ゲーム”は小さな手のひらの上ほどしかなく、その選択も自らが選べてしまうので、自分のコントロールを超えた”存在感”を日々感じられなくなってきています。
私はその”存在感”または”意識を集めるところ”が建物、特に住宅の中にあってもいいと思っています。それを建築的に行ってもいいですし、また先の三浦氏のような存在感のあるアートにその役目を担ってもらっても良いと思います。
今の子供達は解らない事に無神経と言うか無頓着と言うか、関心がないように見受けられます。しかし、解らない事も一度飲込んでおくと、ある時、何かの拍子に見事にひも解かれる時があったりします。それが”気付き”であり”気付かされる”というプロセスです。
子供にとって自分の解らない存在をどこかに感じておく事は、自分以外のものの存在を感じているようなものです。それは親兄弟といった身近なものでない方が、居心地がいいかも知れません。とにかく、自分以外の存在感をどこかで感じておく事が”自己意識の肥大化”を防ぎやすいと思うのです。
時に自然の猛威を知り、また豊かさを知り、過酷さを知って大いなる自然の”存在”にに畏怖と畏敬の念を抱く事は洋の東西を問いません。人間とはそう言うものなのだと思うのです。それは人の間で生きるため、地球上で生きるための智恵なのかもしれません。
心地のいい風景を描くためにはそう言う事も大切だと思います。
いまや全ての部屋が明るくなり、想像する闇はなくなりました。何かわからない”存在感”を感じる事はないのです。唯一の”ゲーム”は小さな手のひらの上ほどしかなく、その選択も自らが選べてしまうので、自分のコントロールを超えた”存在感”を日々感じられなくなってきています。
私はその”存在感”または”意識を集めるところ”が建物、特に住宅の中にあってもいいと思っています。それを建築的に行ってもいいですし、また先の三浦氏のような存在感のあるアートにその役目を担ってもらっても良いと思います。
今の子供達は解らない事に無神経と言うか無頓着と言うか、関心がないように見受けられます。しかし、解らない事も一度飲込んでおくと、ある時、何かの拍子に見事にひも解かれる時があったりします。それが”気付き”であり”気付かされる”というプロセスです。
子供にとって自分の解らない存在をどこかに感じておく事は、自分以外のものの存在を感じているようなものです。それは親兄弟といった身近なものでない方が、居心地がいいかも知れません。とにかく、自分以外の存在感をどこかで感じておく事が”自己意識の肥大化”を防ぎやすいと思うのです。
時に自然の猛威を知り、また豊かさを知り、過酷さを知って大いなる自然の”存在”にに畏怖と畏敬の念を抱く事は洋の東西を問いません。人間とはそう言うものなのだと思うのです。それは人の間で生きるため、地球上で生きるための智恵なのかもしれません。
心地のいい風景を描くためにはそう言う事も大切だと思います。
by DEPTH-TRUCT
| 2005-10-30 01:40
| 建築雑記