2006年 06月 17日
洗骨(せんこつ) |
人の歴史の中で、死者との関わりは日常の最も重要な物事ではなかったでしょうか。エジプトに限らず、各地に残るミイラや仏教の即身成仏など死後の世界観が日常と強くリンクしていたからに他なりません。
雑誌アエラの前号の記事に『「洗骨」で死と向き合う』という記事が載っていました。鹿児島の与論島で行なわれた「洗骨」の記事は、今の我々の日常では見えにくくなった『繋がり』を垣間見せてくれます。
『故人の近親者だけが集まり、人目に付かないよう、早朝に骨を掘り出す。骨を水で洗い浄めることで、海のかなたの極楽浄土へ行かれると言われる。』
この辺りの宗教(与論神道)では、家に先祖代々の魂が宿り、生と死、神様と人はすぐ近くにあると考えられているそうで、人が亡くなる時も、病院に”霊安室”はなく、死期が近くなると自宅に帰り、最後を迎えるそうです。
土葬された遺体を数年後に掘り返し、水で洗い浄める。この非日常のような行為を続けさせるものは、やはり『愛情』なのでしょう。洗い清めながら、話し掛け、想い出話しにひとしきり浸る。そこには自分が、自分達が一人ではないという”連綿と続く安心できる居場所の確認”があるのではないでしょうか。
また、「洗骨」の文化圏では殺人などの凶悪事件が少ないと言う研究もあるそうですが、やはり、”切れていない自分の確認”が人をひとまわり大きく、また、見据える視点を変えてくれるのではないかと思います。
文化とは様々に広がりを持ったものとして、日々の生活に絡み合い、心地のいい風景をつくり出すものでもあったように思います。しかしこの島でも火葬場ができ、急速に「洗骨」の文化が失われているそうです。一見清潔で綺麗な変化が、様々な繋がりを持たない「切れる」温床になっていくのでしょう。その時「洗骨」に負けない、同じくらいの文化を私達は持てるのでしょうか。
雑誌アエラの前号の記事に『「洗骨」で死と向き合う』という記事が載っていました。鹿児島の与論島で行なわれた「洗骨」の記事は、今の我々の日常では見えにくくなった『繋がり』を垣間見せてくれます。
『故人の近親者だけが集まり、人目に付かないよう、早朝に骨を掘り出す。骨を水で洗い浄めることで、海のかなたの極楽浄土へ行かれると言われる。』
この辺りの宗教(与論神道)では、家に先祖代々の魂が宿り、生と死、神様と人はすぐ近くにあると考えられているそうで、人が亡くなる時も、病院に”霊安室”はなく、死期が近くなると自宅に帰り、最後を迎えるそうです。
土葬された遺体を数年後に掘り返し、水で洗い浄める。この非日常のような行為を続けさせるものは、やはり『愛情』なのでしょう。洗い清めながら、話し掛け、想い出話しにひとしきり浸る。そこには自分が、自分達が一人ではないという”連綿と続く安心できる居場所の確認”があるのではないでしょうか。
また、「洗骨」の文化圏では殺人などの凶悪事件が少ないと言う研究もあるそうですが、やはり、”切れていない自分の確認”が人をひとまわり大きく、また、見据える視点を変えてくれるのではないかと思います。
文化とは様々に広がりを持ったものとして、日々の生活に絡み合い、心地のいい風景をつくり出すものでもあったように思います。しかしこの島でも火葬場ができ、急速に「洗骨」の文化が失われているそうです。一見清潔で綺麗な変化が、様々な繋がりを持たない「切れる」温床になっていくのでしょう。その時「洗骨」に負けない、同じくらいの文化を私達は持てるのでしょうか。
by DEPTH-TRUCT
| 2006-06-17 23:42
| 雑 記