2008年 02月 19日
頑張れば夢かなうは幻想、傲慢 |
作家の山田太一氏の発言が話題だそうです。
「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」 山田太一発言ネットで大反響
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080217-00000001-jct-soci
なるほど、じつは私も以前からこの種の発言に違和感がありました。
■想像力
誰しも夢を持つ事は素晴らしい事で、それに向かって努力する事はとても大切な事だと思っていますし、若い人や子供達にも何のためらいもなく、そう言うでしょう。
ただ、山田氏の言うように一部の若きビジネスパーソンの発言に「傲慢さ」を感じるのは、彼等の発言が「自分の夢」で自己完結し、それを支えてくれるものへの配慮=想像力が感じられにくいからではないか。(これはメディアの編集による場合もありますが。)
山田氏は言います。
「そんなにうまくいかないのが普通なんです。
その普通がいいんだと思わなければ、
挫折感ばかり抱えて心を病んでしまう」
「僕は一握りの成功者が『頑張れば夢はかなう』と言うのは
傲慢だと思っています。多くの人が前向きに生きるには、
可能性のよき断念こそ必要ではないでしょうか」
■可能性のよき断念
「夢は夢だからいい。」
とも言いますね。夢や目標は常に同じとは限りません。それはその人生が決まったものではない場合が多いから。
山田氏は「断念」という言葉を使いましたが、人の成長とともに物事の見方や自分自身のポジションの変化からも”夢”は変化するでしょうし、齢を重ねる毎に気付くでしょう。
”一つの夢は、じつは多くの他者の同じような夢に支えられている”
「可能性のよき断念」とは、じつは断ち切られたものではなく、それを糧に”支える力”にもなって社会全体から見れば昇華しているとも考えられるのではないでしょうか。少なくとも自分としてはそう考えてみたい。
■成果主義あるいは見返り
昨今の企業では”成果”を声高に求めますが、モノをお金で買う経済は「努力=結果」という幻想をより具体化しやすかったと思えてなりません。
一昔前であれば以下のように言っていたでしょう。
「努力する事が大切」 「夢を持つ事が大切」
それが「夢が叶う」と言われるようになってきたのは、そこに”成果主義”あるいは”見返り”を求める心が社会全体に肥大してきたと思うのです。それらを求める事は決して悪くはないのですが、求め過ぎて道を誤る例(特に企業や行政など)が多くなりました。
「モノを貰うのは決して卑しい事ではない」と思っています。御近所さんから頂き物をしたり、知り合いからお土産を貰ったり、もちろん、相応の心遣いは必要になるかもしれませんが、そこには何より仏教で言う『共生(ともいき)』の教えがあります。
人は知らず知らずのうちに、周りから”愛情”など、多くの目に見えない成果や見返りを求めないものを貰ってて、それなくして”夢”は掴めないはず。
それを意識しないような表現はやはり「傲慢」と言われても仕方がないのではないかと思っていました。もちろん、若きビジネスパーソン以上にメディアの責任が大きいとも思っていますし、私達も気をつけて情報を受けなければならないので同じく責任が大きいですね。
「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」 山田太一発言ネットで大反響
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080217-00000001-jct-soci
なるほど、じつは私も以前からこの種の発言に違和感がありました。
■想像力
誰しも夢を持つ事は素晴らしい事で、それに向かって努力する事はとても大切な事だと思っていますし、若い人や子供達にも何のためらいもなく、そう言うでしょう。
ただ、山田氏の言うように一部の若きビジネスパーソンの発言に「傲慢さ」を感じるのは、彼等の発言が「自分の夢」で自己完結し、それを支えてくれるものへの配慮=想像力が感じられにくいからではないか。(これはメディアの編集による場合もありますが。)
山田氏は言います。
「そんなにうまくいかないのが普通なんです。
その普通がいいんだと思わなければ、
挫折感ばかり抱えて心を病んでしまう」
「僕は一握りの成功者が『頑張れば夢はかなう』と言うのは
傲慢だと思っています。多くの人が前向きに生きるには、
可能性のよき断念こそ必要ではないでしょうか」
■可能性のよき断念
「夢は夢だからいい。」
とも言いますね。夢や目標は常に同じとは限りません。それはその人生が決まったものではない場合が多いから。
山田氏は「断念」という言葉を使いましたが、人の成長とともに物事の見方や自分自身のポジションの変化からも”夢”は変化するでしょうし、齢を重ねる毎に気付くでしょう。
”一つの夢は、じつは多くの他者の同じような夢に支えられている”
「可能性のよき断念」とは、じつは断ち切られたものではなく、それを糧に”支える力”にもなって社会全体から見れば昇華しているとも考えられるのではないでしょうか。少なくとも自分としてはそう考えてみたい。
■成果主義あるいは見返り
昨今の企業では”成果”を声高に求めますが、モノをお金で買う経済は「努力=結果」という幻想をより具体化しやすかったと思えてなりません。
一昔前であれば以下のように言っていたでしょう。
「努力する事が大切」 「夢を持つ事が大切」
それが「夢が叶う」と言われるようになってきたのは、そこに”成果主義”あるいは”見返り”を求める心が社会全体に肥大してきたと思うのです。それらを求める事は決して悪くはないのですが、求め過ぎて道を誤る例(特に企業や行政など)が多くなりました。
「モノを貰うのは決して卑しい事ではない」と思っています。御近所さんから頂き物をしたり、知り合いからお土産を貰ったり、もちろん、相応の心遣いは必要になるかもしれませんが、そこには何より仏教で言う『共生(ともいき)』の教えがあります。
人は知らず知らずのうちに、周りから”愛情”など、多くの目に見えない成果や見返りを求めないものを貰ってて、それなくして”夢”は掴めないはず。
それを意識しないような表現はやはり「傲慢」と言われても仕方がないのではないかと思っていました。もちろん、若きビジネスパーソン以上にメディアの責任が大きいとも思っていますし、私達も気をつけて情報を受けなければならないので同じく責任が大きいですね。
by DEPTH-TRUCT
| 2008-02-19 00:07
| 雑 記