2013年 11月 05日
考察<非共感> |
『<非共感>って何?』
先日のフェースブックの投稿で、この言葉に引っ掛かる方がいらっしゃた。
3.11以降、いや、そのずっと前から<共感>は求められていたし、そもそも「個」の確立する以前は<共感>こそが求められた、いわゆる”村社会”が世界そのものであって、それに反する者は許されず、”村八分”にされた。
今もその傾向は違う形で、「個」を蝕む。
基本的に”流行もの”は<共感>で成り立つが、それが自然発生的であれば違和感はないが、<作られた共感覚>には違和感を覚える。
例えば、日本の歌謡曲にはポップスやロック、演歌やジャズやシャンソンなど幅広い要素を含んでいたが、「ビジネス」の名の下にジャパンポップスと呼ばれるものに集約されて行く。
■世界の萎縮
私の居た大学の軽音楽部では当時、ジャズ、ロック、フォークの各部門があって、ジャンルの違いからか、”多様な個性”がぶつかり合いがありながらも、コンサートに向けて一体化する経験をしたが、これは後にとても大切な経験であったと気付かされた。
社会では、考えの違う者同士が一つの目標に向かう事が求められたからだ。それは自分以外の世界の存在を認める、知ると言うこと。
もっと言えば、社会は<共感>と<非共感>で成り立っている。その気付きがあれば、「個」の中で世界は単純に倍になる。
「自分にとっては重要なことだが、
他人にとっては重要じゃないんだ。」
「そういう点が重要だと思っている人がいるなんて、
考えもしなかった。」
<共感>のみを強いるのは、 世界を萎縮させるだけなのだと思う。
■ 思考停止
また、<共感>のみを強いる社会が怖いのは「個」の思考を停止させるということ。
どうも昨今の風潮は「自分にとっては重要でないことだから価値はない。」という価値判断の仕方が多いように感じられるが、それはものすごく危ない。
パスカルは、人間とは孤独で弱い葦のようであるが、考えることができることは偉大であり尊厳がある(考える葦)としたように、思考は至極人間的で、重要な要素のひとつ。
そもそも、思考や気付きは自分の中に在る得体のしれない物が同士が、論理的に結びついたり、忽然と結びついて新たな世界を見る行為に他ならない。しかし、その為には己の中に何かしら物事が入っていなければならないし、より斬新な思考や気付きになればなるほど、<共感>と<非共感>のように相反するものを内に秘めていなければならない。
<共感>のみを強いるのは、思考停止を助長させてしまう。

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つまり、<共感覚>を強いる社会に『それで良いの?』と異を唱える<非共感>は、根源的な問いかけと考えています。
先日のフェースブックの投稿で、この言葉に引っ掛かる方がいらっしゃた。
3.11以降、いや、そのずっと前から<共感>は求められていたし、そもそも「個」の確立する以前は<共感>こそが求められた、いわゆる”村社会”が世界そのものであって、それに反する者は許されず、”村八分”にされた。
今もその傾向は違う形で、「個」を蝕む。
基本的に”流行もの”は<共感>で成り立つが、それが自然発生的であれば違和感はないが、<作られた共感覚>には違和感を覚える。
例えば、日本の歌謡曲にはポップスやロック、演歌やジャズやシャンソンなど幅広い要素を含んでいたが、「ビジネス」の名の下にジャパンポップスと呼ばれるものに集約されて行く。
■世界の萎縮
私の居た大学の軽音楽部では当時、ジャズ、ロック、フォークの各部門があって、ジャンルの違いからか、”多様な個性”がぶつかり合いがありながらも、コンサートに向けて一体化する経験をしたが、これは後にとても大切な経験であったと気付かされた。
社会では、考えの違う者同士が一つの目標に向かう事が求められたからだ。それは自分以外の世界の存在を認める、知ると言うこと。
もっと言えば、社会は<共感>と<非共感>で成り立っている。その気付きがあれば、「個」の中で世界は単純に倍になる。
「自分にとっては重要なことだが、
他人にとっては重要じゃないんだ。」
「そういう点が重要だと思っている人がいるなんて、
考えもしなかった。」
<共感>のみを強いるのは、 世界を萎縮させるだけなのだと思う。
■ 思考停止
また、<共感>のみを強いる社会が怖いのは「個」の思考を停止させるということ。
どうも昨今の風潮は「自分にとっては重要でないことだから価値はない。」という価値判断の仕方が多いように感じられるが、それはものすごく危ない。
パスカルは、人間とは孤独で弱い葦のようであるが、考えることができることは偉大であり尊厳がある(考える葦)としたように、思考は至極人間的で、重要な要素のひとつ。
そもそも、思考や気付きは自分の中に在る得体のしれない物が同士が、論理的に結びついたり、忽然と結びついて新たな世界を見る行為に他ならない。しかし、その為には己の中に何かしら物事が入っていなければならないし、より斬新な思考や気付きになればなるほど、<共感>と<非共感>のように相反するものを内に秘めていなければならない。
<共感>のみを強いるのは、思考停止を助長させてしまう。

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つまり、<共感覚>を強いる社会に『それで良いの?』と異を唱える<非共感>は、根源的な問いかけと考えています。
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by DEPTH-TRUCT
| 2013-11-05 06:25
| 雑 記